‥ところで、腕時計って どうッスか?
馴染みの理髪店で 若い店主から ふられた。
‥この話題に食いつく男子、けっこういるんスよね。
散髪中のお客を楽しませる話題作りは、サービス業としての心得。
ただ彼の場合、自身の興味ごとしか話さない、商売っけのなさが
好感のもてるところ。
‥ ・・・いやぁ。オレは だめだなあ。
この話題には、まったくひっかからない。腕時計はしない。
理由はふたつ。
長袖シャツの袖口がいたむことと、キーボードなどPCの操作の
とき、腕に重さを感じるため。
むかし、懐中時計 は使っていました。
西部劇によく出てくる、丸くて片手でパカッと蓋を開ける代物。
ジーンズ党の私は、右手側のちっちゃいポケットにしのばせて
チェーンをベルトに巻きました。真偽の程は別に、このポッケ。
本当に懐中時計のためのものだったと、聞いたことがあります。
時間を確認するたび、C.イーストウッド になった気分でした。
ただ 残念ながら
イーストウッド氏はまだまだ現役であっても、私の懐中時計の
ほうは、携帯電話の出現で、あえなく隠居の状態にあります。
‥ロレックス とか オメガ とか、日本人だけらしんスよ。
○○ ってメーカー とか、いいらしんンスよねえ。
聞けば
自身でも奮発して 海外の腕時計を 買っちゃったということ。
うらやましい と思いました。
高級品を持っている。ということではなく、夢中になれるモノ、
こだわりが持てもモノがある、ということに‥。
さて
こんなやり取りがあって 数日のち。
私が腕時計をしない。という もう一つの理由が浮かびました。
『時間』からの “拘束感” です。
つまり、時計という『機械』ではなく
『時間』そのものに 手首を掴まれている。 という感覚です。
そんな無意識を、片方の無意識が拒絶しているのではないのか。
スマートフォン の次ぎにくる ネット端末(デヴァイス)が
メガネ型、腕時計型、といったウェアラブルなものになること
は わかっています。
これまでのような “インターネットへの依存”という領域から
“インターネットからの拘束” という意識へと(わるい意味で)
ヴァージョン・アップしてしまうのではないのか‥。
そんな よからぬ想像をしてしまいました。